ゴーン・ベイビー・ゴーン 

『アルゴ』がオスカーを受賞し、俳優のみならず、監督として確固たる地位を築いたベン・アフレック監督作品である『ゴーン・ベイビー・ゴーン』を最近見返した。前回鑑賞した時は、僕はまだ父親ではなかった。しかし娘が生まれた今、僕はこの映画にどんな感想を抱くのだろうか?単純な好奇心から再び、ベストアンサーを巡る僕とこの映画の戦いが始まった―と、格好付けで書いてみる。ネタバレ全開で書くので、未見で興味ある人は注意されたし。


この映画、ストーリーとしては全然面白いわけではなく、僕も昔見た時はこの作品の何処を評価すれば良いのか迷っていた。要はサスペンスというか用事誘拐事件を主とした探偵モノなのだが、ミスリードにしても随分弱いし、真相を全部見抜けたとは言わないが、真犯人にしても消去法で見当がついてしまうくらいで、正直言ってドキドキワクワク感を期待して、この作品に臨むと、非常に痛い目に会う。この作品のズルくて巧い所はサスペンスとジャンルを設定しておきながら、それがメインディッシュではない点だ。当初の展開からは予想できないヒューマニズムをラストで押し出し、何が正しくて何が悪いのか?という人間にとって永遠に答えの出ないテーマを視聴者に問いかけるという、極めて残酷なストーリーを見せる。あくまでも自身の正義を信じ、それを優先するパトリックと正義ではないと分かっていても、その人達自身の幸せを考え、悪(便宜上、そう形容する事にする)を優先するアンジー。簡潔に言うと、『法に従うか、情に従うか』の二択を、この作品は最終的に視聴者に突きつけてくる。結局この作品は『法に従う』を優先することになるのだが、その結末自体をこの作品は決して幸せに描いていないし、自分でこの未来を望んだはずのパトリックも何処か浮かない表情を見せる。それはパトリックとコンビを解消したアンジーが原因なのも大きいとは思うが、それだけではなく、自分の判断は果たして正しいものだったのだろうか?というのが一番である事は視聴者にも明確に分かるように描写されており、ラスト誘拐犯から無事に保護された娘に対して、母親は娘の好きなぬいぐるみの名前を勘違いして覚えて、更に娘を置いて遊びに行くという行動を見せる。その展開を目の当たりにしたパトリックは、まるで女の子に対して自分が後ろめたい事をしたかのように、距離を置きながら、同じソファに座り、テレビを見つめ、そこで映画は終わる。

パトリックとアンジーが決断に迷う前から、誘拐された娘の母親は非常にいけすかない、親失格の人間として描かれる。娘の事を真に思っているのは実は犯人側であったという事実も視聴者には示され、正直いって、アンジーの『情に従う』という決断を支持する人が多いと思う。中にはパトリックの決断を『何だコイツは』と思う人もいるかもしれない。しかし、それは自分が傍観者だからこそ批判できる話であって、いざ当事者になった場合、パトリックの決断の方がむしろ常識と言えるのではないだろうか。パトリック達はこの事件を仕事として受けており、娘を誘拐された母親の依頼(正確には叔母が依頼するのだが)を遂行しなければいけない義務がある。いくら母親が不適格な親であっても、依頼された以上は、娘を母親の下に返してやらなければいけないのが、筋であるとしか言いようが無い。いちいち情を優先していては、社会が成り立たないのは、ここで説明する事もないくらい、自明の理だ。

パトリックが悩むように、この決断は彼にとっても満足の行くものではなかった。しかしそれでも母親の元に娘を返すのは、それが親子にとって一番いい方法だと自分に時々言い聞かせている。しかしそれが言い訳にしか見えないのは気のせいではないだろう。人が二択を迫られた時、情を優先するのか、あるいは法律、または社会における筋を優先させるのか。どれが正しいとは示されない。しかし人はそれでもどちらかを選ばなければならない。この作品のベストエンドとしてはアンジーの決断が適当という見方もあるだろうが、母親にとって娘が帰ってこないという事実が出来上がるわけで、それもそれで辛いはずである。しかも嘘をつかなければいけないので、罪悪感という意味ではこちらも同じなのである。母親も決して娘の事を想っていないわけではないのは、作中でも示されており、結局どちらを選ぶにしても、傷つく人間、悩む人間は出てきてしまう。

いざ、自分が同じ立場になった時、貴方はパトリックになるのか、それともアンジーになるのか。 人間というのは傷を負わずに前に進むのは難しいのかもしれない。 しかし、そうたらしめているのは、他ならぬ自分達であると考えると、色々胸にこみ上げてくるものがあった。