待つ人―青山剛昌短編集『ちょっとまってて』から

最近モンキーターンを読み直していて、改めて思ったのが、主人公波多野をずっと想い続けるヒロイン澄ちゃんの魅力さ。モンキーターンでは当初波多野の恋人という、他の女性キャラとは圧倒的なアドバンテージを保有していたヒロインでありながら、あくまで競艇の世界を中心に据えた構成のせいか、はたまたキャラクターとしての魅力が読者に伝わりづらかったせいか、ヒロインの座を青島に明け渡し、作者からも青島>澄という事を明言されてしまい、結局終盤近くに青島と波多野の不倫騒動が描かれてしまう等、書いてるだけで可哀想になってくる子ですが、競艇選手として必死にプロの道を駆け上がる波多野を応援し、波多野の事を一番理解していた娘で、作中における波多野への愛情は一番深かったと言える人物です。波多野・澄というカップルは元々幼馴染という間からか、そもそも本人達がそういう性格だからか、あんまり恋人として接しているというシーンはなかったですね。モンキーターン自体が波多野憲ニの成長物語なわけですが、彼の成長となるきっかけにはいつも澄が関わっていた事から、読み直して、初めて彼女の存在の大きさに気付きました。何があっても支えてくれる・待ってくれるという人がいるというのは、それだけでもう幸せな事なんじゃないかなと思います。中々恋愛が進展していなかった波多野との関係は、最終回波多野の賞金王→その場でプロポーズという形でようやく完結しました。

ここで感じ取ったのが『待つ人』の魅力であり、日記の本題です。前述した澄は波多野と交際してから、結婚を申し込まれるまで、実に8年近く待っていました。出番もそう多いわけではないですし、青島というヒロイン上の強敵がいたわけですが、それでも彼女は『待つ』という姿勢を読者に見せることで、波多野の恋人はあくまで澄ちゃんという印象をその都度付けていました。前述した通り本人達は特別恋人関係だと言う事を強調していたわけではありません。自己主張しない上での関係の見せ方という意味では『待つ』は結構大きいですよね。

この『待つ』というシチュエーションは古くからアニメに限らず、色んな作品で使われています。待った結果により、想いが叶った・叶わなかったりも勿論しますが、叶わなかったとしても、その人物は待っていた時間を決して後悔はしていないですよね。ちょっと俗な例を使った上で、もうちょっと突っ込んでいくと、この『待つ』という行為は作品上で話を展開する上において、非常に便利なわけです。しかし演出の仕方によっては受け手に当該人物の魅力をストレートに伝えてくれる優秀な要素でもありますね。『新機動戦記Wガンダム』でルクレツィア・ノインがゼクス・マーキスと再会した時に『ゼクス。1年と22日ぶりですね』と告げるシーンがありますが、これだけでもう視聴者はノインがゼクスに対して特別な感情を持っているんだなと一目で分かります。このキャラとこのキャラはこれこれこういう関係なんですよ〜なんて説明をいちいちやっていたら、話のテンポは相当悪くなります。つまりどちらかが『待つ』という姿勢を見せることで、後は行動か台詞でそのキャラとの関係やバックボーンを一瞬にして説明できるわけですね。そしてそれは男女関係において、最も効果を発揮するんじゃないかなと思います。

青山剛昌の短編集に『ちょっとまってて』という作品があります。漫画・アニメとありますが、アニメの話になります。年上の彼女麻巳子に年齢のコンプレックスを持っていた天才高校生・豊が、それを解消するために、タイムマシンを発明。しかし決行という時になって、豊の真意を察知した麻巳子がタイムマシンを勝手に使用。『ちょっとまってて』と言い残し、豊の目の前から消えてしまいます。翌日豊が学校に登校すると、周りの奇妙な変化に気付きます。麻巳子の事を皆が忘れてしまっているのです。これがタイムマシンの影響だと考えた豊は自分もどんどん麻巳子の事を忘れてしまっていってる事に気付き、自分だけは忘れないと様々な対策を施しますが、努力も空しく、豊は段々と麻巳子の事を忘れていく―という話です。

麻巳子は豊との交際についてあんまり気にしてはいませんでしたが、豊の方は違っていて、年下でおまけに背丈も彼女より低い。そして自分が天才高校生という事で世間から良い意味でも悪い意味でも注目されてしまっている現状を踏まえた上で、今のままでは麻巳子に釣り合わないという事を考えていました。その対策として、過去に飛ぶ事で、自分と麻巳子を同級生にしてしまおうと考え付くわけです。しかしその為には機械を背負った上で、屋上から飛び立つという行動をしなければならない。躊躇してしまった豊の隙を突いて、麻巳子は機械を背負い、屋上から飛び立ちます。振り向き様に豊に何か言葉を残した上で―。余談ですが、この時に麻巳子が何と言っているか分からないようになっています。ただタイトルが『ちょっとまってて』なので、恐らく彼女は去り際にそう言ったのだろうと視聴者に想像させる演出が見所だったりしますね。

この作品の肝は、最初は麻巳子が待つ側の人間になっているのが(今は年下で人生経験も浅い豊がいずれ成長して麻巳子に相応しい男になるという展開から)途中から完全に逆転している事ですね。麻巳子が一足先に2年後に飛び立った事から、結局待つ側になってしまったのは豊でした。そして豊は待つ側に出来る事として、必死に麻巳子を忘れまいとします。しかし結局豊も時が経つに連れて、麻巳子の事を忘れてしまいます。ここで豊の待ち姿勢は一旦保留。次に待つ側になるのが、豊の後輩になる友里で、豊に想いを寄せている彼女はあの手この手で豊の気を惹こうとします。が、終盤で麻巳子と再会した事で、友里の想いは成就しない事に。麻巳子は友里を気遣ってか、ごめんと言い、泣きながらも、最後はそれを笑顔で受けた有里も次へ歩き出します。待ったことで成就した想いと待ったけど成就しなかった想い。それぞれ違う結末を同時に描いているのは、見事としか言いようがありません。

待つ立場が作品の展開によって変わるケースは珍しいわけではないですが、待つということ自体をテーマに据え、それを二転三転させた所が、この作品の良い所かなと思います。最後麻巳子が豊に『ちゃんとまっててくれた?』『何いってんのよ。もう先輩じゃないでしょ?』で、二人の関係性の発展を示し、そこで締めるラストもテーマに沿っていて清清しいです。この作品の待つという関係も後の『名探偵コナン』の工藤新一と毛利蘭にしっかりと受け継がれてはいますね。そういう意味ではコナンのベースの作品だと思います。

青山剛昌はこれがデビュー作品という事ですが、それにしては恐ろしく完成された作品なので、才能を持ってる人は違うなと改めてそう感じます。後余談ですが、このEDは夏のサンタクロースと共同で、『青山剛昌短編集』アニメ版のEDという位置づけですが、切なくて良い曲です。歌っているのが実は田村ゆかりというのも驚きですねw(当時はそんなの知りませんでしたから)


今回『待つ』事に置いてのキャラクターの描き方に注目してみたわけですが、こういう人間関係の描き方は王道ではありますが、王道であるが故に心に響くものがやっぱりあるのかなと、自分ではそう思います。アニメだけでなく、昔から映画、小説でも使われている手法なので、これからも様々な『待つ人』が誕生してくるかもしれませんね。