ネットから集めた情報だけで作品を語る人達

最近ちょっと気になっているのが、作品を語る時に『その作品を見ていないのに、ネットから集めた断片的な情報だけで語る』人です。 ある意味バカ正直とも言えますが、一番大事な所をすっ飛ばして、作品論を始めてしまうのは大分無理があるのではないかと思います。 というかそもそも語れるわけがないのです。ネットの情報というのはあくまで他人の意見なのであって、自分の意見ではありません。 他人の意見を参考にして自分の自説を展開するのはそれは方法としてあるので構いませんが、それも自分の感想を下地にしてという前提条件で成り立つものであり、初めから他人の意見を下地にしているのとはまた大きく違ってきます。

自分の中の考えでは所謂作品論は自分が愛してやまない作品とか好きな作品とかに限定して行っています。 だから他人の意見を参考にする事はあっても、決して自分の意見を1から設定しない!という事はしません。出来ません。 作品を語りたいという考えは私のような好きな作品を語る以外にも嫌いな作品に対してという考え方も勿論あると思います。 ただそれも嫌いであるならば自分の意見を前提にした上でやらないと、作品に対して失礼ではないでしょうか?

自分が嫌いな作品には反対に好きなファンもいるわけで、批判意見が難しいというのは作品だけでなく、悪評を投じる事への他人への配慮がまた別に問われるから難しいのだと感じます。そういう意味では最低限の節度を持って行わなければならないのに、前提条件として自分の意見を持っていないというのは作品に対する最大級の侮蔑と言っても過言ではないと思います。

以前別の場所でも書きましたが、そういう人達は『作品が好き』なのではなく『作品を語っている自分が好き』な人種なんですね結局。 だからなんでもかんでも節操なく浅はかにアニメを語ります。その人のカラー・方向性が全く見えてこない語り手は私はどうも好きではありません。アニメを語る『自分』が好きなわけであって、好きなアニメを語る事が好きというわけではないからです。『こういう部分があるからこのアニメは凄いんですよ!』じゃなくって『このアニメのこういう所がわかる(気づく)俺が凄い!』ってな感じ。その愛情が文章からは見えてこないのですよ。

それが別に間違っていると完全否定は出来ませんが、最近そういう人が多いなという印象を受けます。 思い入れがあれば文章が下手でも共感出来たり感動できたりするものです。逆に文章がいくら上手くても、その人の思い入れが見えてこないと 何か気取った文章だなと思われがちです。題材にされているのが自分にとって特別な作品である場合は一目瞭然でしょう。

時々文章が上手く書けないからそういうのは出来ないとか苦手とか仰る方もいますが、そんなのは関係ありません。 作品に対する好意があれば、それを他人に伝えたい!という思いがあれば出来ますよ。 その為にもまずは作品に対する自分の意見をはっきりと自覚することが大切だと私は思います。