終わりの無い話

某所で僕の発言を多少捻じ曲げた解釈で個人ブログで他者に『〜なんですよ』とか発言する人間がいた。 勝手にやってろという感じだが、あの手の性格の人間は本当に見ていてイライラする。

自分に賛同して欲しいと強く思いながらも、他者が肯定意見を言うと、そういう意味で言ったわけではないと言いやがるし 否定意見が出ると私そういうつもりで言ったんじゃないんです、貴方の勘違いです・・・とか自己保身に走る。 自分と他者の交流において100%寸分もたがわず意思疎通等できるわけが無いのだから、ある程度のズレは許容するのが当たり前である。 件の彼はそのズレすら許さず、ひたすら自分を真に理解してくれる人が現われるその日まで、今日も無為な文章を投下している

以前からこの手の輩には言いたいのだが、『自分がそういうつもりで発信したわけではない』というのは 少なからず他者と関わらなくてはいけない世の中では当たり前の事である。自分がどういう意図で発言したかより、他人がどう受け止めたかが、大事であり、そういう意味では発言を選ぶというのはとても大事になってくる。その点でいえば、僕も彼の発言を許容してあげねばならない。だから不干渉を貫く。そして愚痴をこのブログで書くw

自分が絡んで不快になった人間は総じて、広く誤解を招く発言をしていた。 勿論大半の人は不備を認めると、謝罪してくれたり、中には喧嘩腰で反論してくる人もいた。 それはズレている自分の意思を他者と擦り合わようとしてくる意思から来るもので、逆ギレであろうと、それは人間の意志としては自然だと思う。 お互いに意見のズレによる衝突の妥協点を探り合っているのだ。

件の人、これまた文章がすこぶる分かりにくい。言葉を変えて、同じ事を何回も書くし、議論の出発点と終着点がこれまた不明。 そんな感じでは、永遠に自分の理解者等現われないだろう。 生産性のない活動という意味では私のブログも同義だが、いずれにしろ、彼は自分の文章の真の理解者が出てくるであろう事を確信し 今日もまた自分以外の人間を見下しながら生きている。

誰か彼を救ってやって欲しいね。

日本代表の問題点

無事日本代表はブラジルW杯を決めたわけだけど、正直手放しで褒められるレベルではなかった。失点に関しては川島が批判の矢面に立ってるけど あれはアンラッキーの類だと思うので、可哀想な面もある。守備に関しては松木の指摘通り、守備の鍵を握るとされていた今野が充分に対応できていたので、そこを変更したせいでリズムが狂ったとか言われているが、ザックは引き分け狙いに走ったわけではなく、純粋に長友を攻撃参加させたかっただけじゃないだろうか。元々W杯出場に関して言えば、日本はオージー戦を迎える前より、勝ち点や得失点差を考えれば、99%間違いなく出場可能な所にいたのである。そして日本は今までホームの地でW杯を決めたことがない。それが引き分けによる結果ではなんとも華がない。リスクを侵しても勝利する事へザックは賭けたのだ。ヨルダン戦、ブルガリア戦と2連敗をし、決して調子が良いとも言えないチームを勝利を飾ることで、今後控える試合に勢いをつけていきたかったのでは―オージー戦に勝利する事は、ただの勝利ではない。勝てばその時点でW杯が世界最速(ホストのブラジルを除いて)、しかも超満員の埼玉スタジアム、ムード的にもこの試合での勝利はリスクを侵してでも、掴みたかったのがザックの本音ではなかったかと思う。実際失点するまでは日本は決定機を何度も演出していたし、守備に関しても危ない場面はあったものの、よく抑えていた。内容だけ見れば、引き分けで終えていい展開では決してなかったはずだ。

日本のシステムは4-2-3-1がベストという結論が出ているが、本大会を見据えた場合、オプションがこれだけというのは何とも頼りない。そもそもワントップに据えるFWが磐石でない。レギュラーの前田は今シーズンJでは苦しんでいるように、1年後も彼が安泰という保障は無い。これに関してはハーフナーの更なる飛躍と今試合召集した工藤等の台頭が望まれるところだ。ハーフナーは代表では思ったようにフィットせず苦しんでいるようだが、フィテッセでは監督が様々なポジションで起用し、ポストプレー等の教育もコーチと行っているという。可能性としてはザックの思い描くプレースタイルを習得できるかもしれないのだ。本大会出場を決めた今、ハーフナーをこれまで以上に育てないことにはタフな試合は戦えないと思う。見切るなら工藤or豊田or大迫もいいかもしれない。どちらにせよ、ザックはFW陣の運用についてはそろそろハッキリと答えを出す時期ではないかと思う。前田・ハーフナー体制でいくのなら、ハーフナーへの時間を増やすべきだし、そうでないのなら、速めに切り捨てるべきである。3-4-3を本採用するのかといった面からも、まだ1年あるのか、あと1年しかないのか、ザックの手腕の見せ所である。

問題点は叩けばいくらでもあるのだが、あんまり一気に書くと疲れてしまうのでこれくらいにする。 正直日本代表の課題は多い、先ほど挙げたFW陣もそうだが、2列目やボランチ、DFもアップデートする必要を迫られている。 オージー戦希望がまったく見えなかったかというとそうでもない。長谷部が守備に躍動していたのが収穫か。 あんまり目立たないし、批判される事も多いが、長谷部は展開力がないだけ(遠藤と比べられるのであれだが)で高いポテンシャルを感じる選手ではある。ただその攻守のバランスを本人が試合中に活かしきれてない気がする。ダイナモ的な感じで、時に果敢に攻め上がり、時にボールを持った相手に襲い掛かるといった要素が、状況に応じて発揮できればいいのにと思う。そうすれば代表のリズムがもっとよくなるはずだ。まあそんな事出来てたらとっくにワールドクラスの選手になってますよねって話になるんだけど。細貝がすぐにカード貰っててあんまりよくなかったせいで、いつもより色眼鏡で見ちゃったのかもしれないがw

真・女神転生

真・女神転生の最新作の4を買えなかった反動で過去作を急にやり直したくなった。所持している3に始まり、ゲームアーカイブスで1.2を購入してしまった。2はやった事ないのだが、元々バグの嵐だと聞いたことがある。勿論配信されているのは修正版だが、それでもバグはまだ潜んでいるらしいおすし。幸い、ゲームの進行に支障をきたす悪質な類のものはないらしいので、その点では安心して遊べそう。

女神転生というのは簡単に言ってしまえば、人間の世界に悪魔と神が干渉して来る、という話なのだが、面白いのは悪魔だ神だといって、その勢力の持つ思想が実に人間臭い点にある。悪魔だからといって人間には全く共感できない存在として描かれているわけでもないし、神だからといって、人間に肯定できる思想を所持している存在として描かれているわけでもない。共通するのは、世界における自種族の確立を目指しており、その為に他の種族を貶めようとする所だ。人間社会においてもこんな奴は掃いて捨てるほどいるだけに、人間の愚かさを皮肉ったような作品にも感じる。それが真・女神転生略してメガテンの魅力であり、戦闘の絶妙なバランス、退廃感を感じる世界観と相まって、今日までに熱狂的なファンを獲得するまでに至る。ペルソナシリーズの成功で、最近は比較的ライトな層にも知れ渡っているのは良い事だ。

もっとも、面白いのは、出てくる悪魔達を説得して仲間(メガテンでは『仲魔』と表記する)に引き入れたり、戦闘で成長させたり、合体して強力な悪魔にしたりという一風変わった育成システムなわけだが・・・。一風変わったといっても、今日ではさほど珍しいシステムというわけでもない。しかし複雑なシステムというわけでもないので(突き詰めていくと、結構奥が深く、複雑になるのだが)、ハマりやすい。最近のゲームはシステムが凝っているなあと思う半面、慣れに時間を要するものが意外に多い。そこから考えると、日本人におけるゲームは単純かつ奥深いシステムが一番好まれる傾向にあるのは間違いないと思う。ポケモンなんかいい例だと思うが。FFなんかはドンドン進化していくが、最近は過剰にシステムを変更していくので、慣れるまでに時間がかかってしまう。コツを掴めば、システムの奥深さが見えてきて楽しくもあるのだが・・・。この辺は流石スクエニだと感じる。年々グラフィックの向上と引き換えにシナリオが退化していく点を除けば、だが。鳥山テメーの事だよ。

本当はメガテンの話ではなく、愚痴になるのかもしれませんが、人間は『ゲスい存在』だよ!というのが言いたかっただけです。 進撃の巨人でも『良い人ってのは、自分にとって都合の良い人を指す』という台詞があります。 万人に好かれる等ありえない事なので、人に好かれるという事を意識するより、もっと自分に自信を持って日々生きて生きたいものです。 そして、人に好かれるというのは必ずしも100%貴方の事を肯定している事象ではないという事を意識しましょう。 そうしないと、いいように使われて、いざという時ポイとかありますゆえ。一番の勝ち組は人の評価など全く気にしていない人だと思います。 社会的に成功しているか・成功していないかは別として。

昨日リストラされた親友からの電話を受けて、そう思いました。 絵に描いたようなイイ奴なんですけどね。人の良さが災いというのはあるのかもしれない。 彼の会社の内情を知らない僕が推測で言うのも何なんですが。

こんな胸糞悪い話聞くと、悪魔召還したいですね。世の中破壊したいですね。どうせなら、おっぱいの大きい可愛い悪魔呼び出したいですね。 ハイスクールD×Dの読みすぎだと思います。正直すまんかった。

ゴーン・ベイビー・ゴーン 

『アルゴ』がオスカーを受賞し、俳優のみならず、監督として確固たる地位を築いたベン・アフレック監督作品である『ゴーン・ベイビー・ゴーン』を最近見返した。前回鑑賞した時は、僕はまだ父親ではなかった。しかし娘が生まれた今、僕はこの映画にどんな感想を抱くのだろうか?単純な好奇心から再び、ベストアンサーを巡る僕とこの映画の戦いが始まった―と、格好付けで書いてみる。ネタバレ全開で書くので、未見で興味ある人は注意されたし。


この映画、ストーリーとしては全然面白いわけではなく、僕も昔見た時はこの作品の何処を評価すれば良いのか迷っていた。要はサスペンスというか用事誘拐事件を主とした探偵モノなのだが、ミスリードにしても随分弱いし、真相を全部見抜けたとは言わないが、真犯人にしても消去法で見当がついてしまうくらいで、正直言ってドキドキワクワク感を期待して、この作品に臨むと、非常に痛い目に会う。この作品のズルくて巧い所はサスペンスとジャンルを設定しておきながら、それがメインディッシュではない点だ。当初の展開からは予想できないヒューマニズムをラストで押し出し、何が正しくて何が悪いのか?という人間にとって永遠に答えの出ないテーマを視聴者に問いかけるという、極めて残酷なストーリーを見せる。あくまでも自身の正義を信じ、それを優先するパトリックと正義ではないと分かっていても、その人達自身の幸せを考え、悪(便宜上、そう形容する事にする)を優先するアンジー。簡潔に言うと、『法に従うか、情に従うか』の二択を、この作品は最終的に視聴者に突きつけてくる。結局この作品は『法に従う』を優先することになるのだが、その結末自体をこの作品は決して幸せに描いていないし、自分でこの未来を望んだはずのパトリックも何処か浮かない表情を見せる。それはパトリックとコンビを解消したアンジーが原因なのも大きいとは思うが、それだけではなく、自分の判断は果たして正しいものだったのだろうか?というのが一番である事は視聴者にも明確に分かるように描写されており、ラスト誘拐犯から無事に保護された娘に対して、母親は娘の好きなぬいぐるみの名前を勘違いして覚えて、更に娘を置いて遊びに行くという行動を見せる。その展開を目の当たりにしたパトリックは、まるで女の子に対して自分が後ろめたい事をしたかのように、距離を置きながら、同じソファに座り、テレビを見つめ、そこで映画は終わる。

パトリックとアンジーが決断に迷う前から、誘拐された娘の母親は非常にいけすかない、親失格の人間として描かれる。娘の事を真に思っているのは実は犯人側であったという事実も視聴者には示され、正直いって、アンジーの『情に従う』という決断を支持する人が多いと思う。中にはパトリックの決断を『何だコイツは』と思う人もいるかもしれない。しかし、それは自分が傍観者だからこそ批判できる話であって、いざ当事者になった場合、パトリックの決断の方がむしろ常識と言えるのではないだろうか。パトリック達はこの事件を仕事として受けており、娘を誘拐された母親の依頼(正確には叔母が依頼するのだが)を遂行しなければいけない義務がある。いくら母親が不適格な親であっても、依頼された以上は、娘を母親の下に返してやらなければいけないのが、筋であるとしか言いようが無い。いちいち情を優先していては、社会が成り立たないのは、ここで説明する事もないくらい、自明の理だ。

パトリックが悩むように、この決断は彼にとっても満足の行くものではなかった。しかしそれでも母親の元に娘を返すのは、それが親子にとって一番いい方法だと自分に時々言い聞かせている。しかしそれが言い訳にしか見えないのは気のせいではないだろう。人が二択を迫られた時、情を優先するのか、あるいは法律、または社会における筋を優先させるのか。どれが正しいとは示されない。しかし人はそれでもどちらかを選ばなければならない。この作品のベストエンドとしてはアンジーの決断が適当という見方もあるだろうが、母親にとって娘が帰ってこないという事実が出来上がるわけで、それもそれで辛いはずである。しかも嘘をつかなければいけないので、罪悪感という意味ではこちらも同じなのである。母親も決して娘の事を想っていないわけではないのは、作中でも示されており、結局どちらを選ぶにしても、傷つく人間、悩む人間は出てきてしまう。

いざ、自分が同じ立場になった時、貴方はパトリックになるのか、それともアンジーになるのか。 人間というのは傷を負わずに前に進むのは難しいのかもしれない。 しかし、そうたらしめているのは、他ならぬ自分達であると考えると、色々胸にこみ上げてくるものがあった。

あっちゃん、AKB辞めるってよ

AKBから去年卒業した、前田敦子こと、あっちゃん。本格的にかねてからの希望であった女優活動に本腰を入れているそうで その一環として、過去の映画の『名作』とされる映画をハイペースで観ているそうだ。その映画好きは芸能界でも話題になり 米国アカデミー賞中継のゲストにも呼ばれるまでになった。しかし、映画好きとは裏腹に底の浅いコメントしか残せず それが原因で相変わらずバッシングを受けているようだけども。

あっちゃんが演技の勉強の一環として映画を観るのは構わないのだけど、バッシングしている人達の見解を信じるならば 彼女は過去の名作と呼ばれる映画を数をこなすが、漫然と観ているという事になり、それが果たして実になってるかという疑問が発生する。 趣味で観ているというのならば、全然問題はないが、殊更それが女優業の勉強となると、果たしてその見方はプラスになるのか?という話。

直接本人から聞いたわけじゃなし、ネット上の情報をそのまま信じるのもあれだから、映画鑑賞は彼女にとって趣味なのかもしれないという可能性は捨てきれない。まあ、それが女優業に生きてくるかどうかは、今後の活躍次第で、徐々に分かっていく事だろう。タランティーノのように映画好きなだけで、その分野の才能を伸ばせるわけではないとはやっぱり思ってしまう。だって同じような理屈でいえば水野先生も素晴らしい映画監督にならないとおかしくない?いやある意味素晴らしい映画監督だけどさー。

別に僕は俳優じゃないし、関係の職業に就いているわけでもない。けれども映画をひたすら観るってだけで自己完結するんじゃなくって 表に出て、人脈を広げて、演技のアドバイスなり受けたり、レッスン受けたりとか、生の他人の刺激というのを大切にしたほうがいいかとも思っちゃうわけです。映画鑑賞って結局自分の中の解釈が全てになっちゃうから。不特定多数の人に観られるという職業上、その偏りがちょっと心配だなあと思っちゃいます。言い方が悪いけど元々演技に関して光る才能を持ってる人でもないですから。他人への感心も貪欲に持ち合わせていく事が成功への近道ではないかとも思うんですよね。表に出ないだけで、既に実践されている可能性もありますが。

でも、ライフオブパイの感想が『動物がかあいそう』とか言っちゃってるあっさん見ると、おっさんは不安で不安でw 確かに見方によっちゃそう思える所もあるのは否定しないけど、やっぱり底の浅さは指摘されてもおかしくないよ。

リーガル・ハイから見る、日本の集団心理、絆という言葉の危うさ。

SPを見逃した反動で、リーガル・ハイのブルーレイBOXを購入してしまった。 全話しっかり観れていなかったし、秋に2期も始まるのでおさらいの意味でも良い買い物をしたと思う。 SP版も夏にブルーレイ版が発売されるので楽しみだ。


リーガル・ハイは僕が見てきたドラマの中でも5本の指に入る最高傑作と思う。これはお世辞でも誇張でもなく、本当にそう感じる。 破天荒な弁護士を演じる堺雅人の好演もさる事ながら、彼が演じている古美門の捻くれた考えに大変共感できる点が多く、そこに大きな魅力を感じる。今までこのようなタイプはむしろ悪人として描かれる事が多かった。むしろ黛のようなバカ正直で正義感に溢れたり、破天荒ながらも、正義を愛する・貫くといった人間的に好感の持てる人物を主人公として据えたドラマが所謂既定路線であったと思う。

東日本大震災以降、日本全土でこういう言葉が流行った

『絆』

言葉自体はとても素晴らしいし、震災・不況等で日本全体が苦境に立たされている中、これをスローガンにするのは別に悪いことだと思わない。 だが同時に『絆』という言葉があまりにも安請け合いされているのではないかと、疑問に思うこともあった。 そもそも絆とは日本国民の協調性を重んじる性格を体現したような言葉であると思っている。 協調性を重んじる、聞こえは非常に良い。集団を何よりも優先させる、外国にはない、わが国の強みだと思う。

しかし、だ。協調性は足並みを揃えない人間を暗黙に抹殺する危険な考えでもあり、必ずしも、メリットばかりがあるわけではない事をもっと認識するべきだ。コミュニケーション能力の向上が叫ばれる中、協調性という項目は年を経る事に重要の度合いを上げていっているが、これはそこまで持ち上げられるべき事なんだろうか?私が危惧するのは、『協調性』を盾に少数派の意見を抹殺する体の良い言い訳として、現状使い勝手が良いとされている点にある。

リーガル・ハイで古美門の台詞にこのようなものがある。

『君が正義とか抜かしてるものは上から目線の同情にすぎない。その都度目の前の可哀想な人間を哀れんでいるだけだ』
『・・・でもだったら、それを否定したら、正義はどこにあるんですか?』
『神でもない我々に、そんなこと分かるはずもない』
『正義は特撮ヒーロー物と少年ジャンプの中にしかないものと思え。自らの依頼人の利益のためだけに全力を尽くして戦う。我々弁護士に出来るのはそれだけであり、それ以上のことをするべきでもない。分かったか、朝ドラ!』

正義とはそれぞれの人間の中に等しく持っている感情故に、それを客観視出来る物差しがない、という特徴を持っている。 人類の歴史は勝者の正義が積み重ねられた結果である、と言われるくらい、昔から正義については必ずしも明確な定義があるわけではない。

では今の時代の正義は一体どうなっているのか。

率直に言えば、既得権益を勝ち取っている人間の考えそのものが『正義』だろう。 そしてその正義の下に『協調性』を盾に社会を動かしているのが、実情だ。 人類の歴史は常々勝者の『正義』によって、動いてきた事を考えれば、普通の考えである。 そしてその正義に歯向かえば、力のないものは瞬く間に淘汰される。これも世の常である。

日本人は協調性を重んじるあまり、淘汰され、集団から見捨てられる事を必要以上に恐れる。 その結果が、『事なかれ主義』に代表される、自分の考えを押し殺して、集団心理にそのまま従うという風潮である。

そして、それを破壊しようとする者に対し、場の空気を読んでくれといった 争いごとを好まないという反吐が出る正義のヒーロー気取りが沢山登場する。私はこういう人間が大嫌いだ。 自分なりの意見を言わない事を場の雰囲気の調和として選択する行為がそのものが好きになれない。 そしてそしらぬ顔をして、自分は空気を守る為に戦った顔をするのだ。

全うな手段を以って投じられた意見には同じような手段を経て、意見を持ってこちらも対処する。 それが最低限の礼儀であると思う。

しかし、偉そうな事を書いたが、実は私もこの反吐が出る正義のヒーロー気取りの1人でもある。 実際、自分の思い描いた理想を現実に組み込むのは難しい。どうしてもギャップが生じてくる。 理想を現実にするには、並大抵ではない才能と努力が必要だと言う事を実感してしまったのも大きい。 夢のない話だが、『長いものには巻かれろ』が賢い選択でもあるし、自分を守る唯一の手段でもある。

リーガル・ハイはそんな鬱憤を古美門という悪人が晴らしてくれるから面白いのである。 善人ではこの面白さは出ない。何故なら善人とは正義の代弁者であるからだ。 善人は色んな人から『良い人』とみなされる。その『良い人』というのは結局の所、自分の正義を代弁して行動するから『良い人』に他ならない。 意地の悪い言い方をすれば、『自分にとって都合の良い人間』こそが善人なのではないかと思う。 それとは正反対に位置する人間が集団心理における『正義』を次々とブっ壊してくれるのだ。 こんな爽快なドラマはない。

先程言及した『絆』について、古美門はこう評している。

絹美と言う古臭い名前を捨てたら南モンブラン市と言うファッショナブルな名前になりました。なんてナウでヤングでトレンディなんでしょう。そして今、土を汚され、水を汚され、病に侵され、この土地にも最早住めない可能性だってあるけれど、でも商品券もくれたし、「誠意」も「絆」も感じられた。ありがたいことです本当に良かった良かった!これで土地も水も蘇るんでしょう、病気も治るんでしょう。
工場は汚染物質を垂れ流し続けるけれど、きっともう問題は起こらないんでしょう。だって「絆」があるから!!

絆を盾に自分達の感情を押し殺し、調和を求めた老人達への痛烈な皮肉である。 そして彼はこうまくしたてる。

誰にも責任を取らせず、見たくないものを見ず、皆仲良しで暮らしていけば楽でしょう。しかしもし、誇りある生き方を取り戻したいのなら、見たくない現実を見なければならない、深い傷を負う覚悟で前に進まなければならない、戦うと言うことはそういう事だ!愚痴なら墓場で言えばいい!!

現実でこんな事をみんなの前で言えたら、実行できたらどんなに爽快でかっこいいだろうか。 今の世の中はある種洗練されすぎてしまい、中々こうした声を上げることが出来ない。 平たく言えば『先が見えない戦いを始めるよりかは、現状に不満を覚えつつも、黙って生きていたほうが良い』考えが染み付いているのである。 日本人の元々の国民性も相まって、こうした考えは今や『暗黙の了解』とまで化している。

何故今までこうしたドラマが出てこなかったのであろうか。 聞けば、このドラマは視聴率こそ良くなかったものの、ネットを中心に大反響を巻き起こしたそうだ。 それは世の中でまかりとおっている正義にフラストレーションを抱えている人が大勢居る証拠でもある。 100%古美門に心酔する必要はない。しかし彼の生き方、リーガル・ハイというドラマ自体が 日本人への痛烈なブラックジョークと思うと、自分も変わっていかなければいけないのかなと、ふと、そう思ってしまう。

若い層の刺激

全然更新していないし、仕事も今日は休みなので、久々にブログを更新してみる。 ちらほらと読んでますみたいな声をネット上で頂いたり、メールで来たりとしているので 記事を書くことで数少ない読者を逃がさないようにしないといけないw やっぱり読んでくれる人がいるから、ブログって成り立ってるみたいな所あるし。

以前お世話になったサイトを離れ、今は新天地でレビューまがいの事をまたやっている。 レビューなんて書くのは久しぶりだったので、最初は中々良い文章が思い浮かばずにいたけれども 最近は昔の感覚が戻ってきたのか、そこそこ悩まずにキーボードを軽快に叩くことが出来る。 それでもレビューの完成度に時々納得が行かない事はあるけど、これで飯を食ってるわけでもなし。そこはなあなあで済ませている。

まだまだ自分では若い方だと思っていたけど、そのお邪魔しているサイトでは、どうやら僕は年齢では少数派になるらしい。 以前のサイトでは年齢層が高めだったせいか、あんまり意識しなかったけど、年齢別の好きなアニメの嗜好というのは、やはりはっきり分かれるもので 全員が全員とは言わないが、ロボット作品が苦手・SFっぽいのが苦手というのを目にするようになった。特に顕著なのはロボットに関して。 以前の所ではロボットはむしろ人気ジャンルだったので、この現実には非常に驚いた。

どうしてロボットが嫌いなんだろう?とは直接聞けやしないので、現状では個人的な推測に頼るしかない。 女性がロボットを敬遠するのは何となく分かる。所謂性別における嗜好の違いは普通にあると思う。 でも男の子でロボット、しかも変形したり、合体したりというのは、嫌いな奴はいないだろうと勝手に思っていた。 僕なんか単純なんで、ガンダムの新作なんて、放送後の感想はともかく、発表されただけでwkwkしたものだけど。

じゃあ、萌え萌え作品が好きな層が多いのか?というと、必ずしもそうでないっぽいんだよなあ。 思考停止するのは性に合わないけど、現在の学生に人気あるアニメジャンルが予想出来ない。 今では学生もインターネットを普通に生活に利用する層が多いので、そこで生まれた多様な価値観が、彼らのルーツなのかなと思ったりする。 アニメの視聴も昔みたいにテレビ、レンタルじゃなくって、ネットで視聴できる環境もあったりするし、その気になれば毎日アニメ漬けも可能。 ネット社会の普及による、多様な価値観と手軽にアニメを視聴できる環境が、彼らを形作ってるっぽい。 しかし好きなジャンルは絞れないのに、嫌いなジャンルは割とはっきりしているのは何か面白い。 よくよく考えてみれば、ロボット作品は人気ジャンルであるという、僕の思い込みがおかしいのかもしれないけれども。

10代の若い人と交流できたら面白いのかもしれないけど、やっぱりそこはジェネレーション・ギャップを感じてしまうw 敬語嫌だ、とか固い言葉は嫌い、だとかね。これは彼らに礼儀がないの問題ではないと思う。 SNSの発達で、顔が見えない人間との仲良くなる距離が普及する前の人間とは段違いで短いだけなんじゃないかなあ、と。 抵抗ないってのは良いことも悪いこともあるわけで。その辺理解しているなら特に問題はないけどね。

結局違う世代の事なんて、そもそも同じ人間であっても、嗜好・文化が違うんで、もう分からない。同じ日本人じゃないみたいな感じ。 自分達の世代じゃないと、そういうのは考えてもしょうがないかなと思った。 他の世代からすれば、僕らの世代も『何考えてるか分からない』と思われてたりはしてるよね