リーガル・ハイから見る、日本の集団心理、絆という言葉の危うさ。

SPを見逃した反動で、リーガル・ハイのブルーレイBOXを購入してしまった。 全話しっかり観れていなかったし、秋に2期も始まるのでおさらいの意味でも良い買い物をしたと思う。 SP版も夏にブルーレイ版が発売されるので楽しみだ。


リーガル・ハイは僕が見てきたドラマの中でも5本の指に入る最高傑作と思う。これはお世辞でも誇張でもなく、本当にそう感じる。 破天荒な弁護士を演じる堺雅人の好演もさる事ながら、彼が演じている古美門の捻くれた考えに大変共感できる点が多く、そこに大きな魅力を感じる。今までこのようなタイプはむしろ悪人として描かれる事が多かった。むしろ黛のようなバカ正直で正義感に溢れたり、破天荒ながらも、正義を愛する・貫くといった人間的に好感の持てる人物を主人公として据えたドラマが所謂既定路線であったと思う。

東日本大震災以降、日本全土でこういう言葉が流行った

『絆』

言葉自体はとても素晴らしいし、震災・不況等で日本全体が苦境に立たされている中、これをスローガンにするのは別に悪いことだと思わない。 だが同時に『絆』という言葉があまりにも安請け合いされているのではないかと、疑問に思うこともあった。 そもそも絆とは日本国民の協調性を重んじる性格を体現したような言葉であると思っている。 協調性を重んじる、聞こえは非常に良い。集団を何よりも優先させる、外国にはない、わが国の強みだと思う。

しかし、だ。協調性は足並みを揃えない人間を暗黙に抹殺する危険な考えでもあり、必ずしも、メリットばかりがあるわけではない事をもっと認識するべきだ。コミュニケーション能力の向上が叫ばれる中、協調性という項目は年を経る事に重要の度合いを上げていっているが、これはそこまで持ち上げられるべき事なんだろうか?私が危惧するのは、『協調性』を盾に少数派の意見を抹殺する体の良い言い訳として、現状使い勝手が良いとされている点にある。

リーガル・ハイで古美門の台詞にこのようなものがある。

『君が正義とか抜かしてるものは上から目線の同情にすぎない。その都度目の前の可哀想な人間を哀れんでいるだけだ』
『・・・でもだったら、それを否定したら、正義はどこにあるんですか?』
『神でもない我々に、そんなこと分かるはずもない』
『正義は特撮ヒーロー物と少年ジャンプの中にしかないものと思え。自らの依頼人の利益のためだけに全力を尽くして戦う。我々弁護士に出来るのはそれだけであり、それ以上のことをするべきでもない。分かったか、朝ドラ!』

正義とはそれぞれの人間の中に等しく持っている感情故に、それを客観視出来る物差しがない、という特徴を持っている。 人類の歴史は勝者の正義が積み重ねられた結果である、と言われるくらい、昔から正義については必ずしも明確な定義があるわけではない。

では今の時代の正義は一体どうなっているのか。

率直に言えば、既得権益を勝ち取っている人間の考えそのものが『正義』だろう。 そしてその正義の下に『協調性』を盾に社会を動かしているのが、実情だ。 人類の歴史は常々勝者の『正義』によって、動いてきた事を考えれば、普通の考えである。 そしてその正義に歯向かえば、力のないものは瞬く間に淘汰される。これも世の常である。

日本人は協調性を重んじるあまり、淘汰され、集団から見捨てられる事を必要以上に恐れる。 その結果が、『事なかれ主義』に代表される、自分の考えを押し殺して、集団心理にそのまま従うという風潮である。

そして、それを破壊しようとする者に対し、場の空気を読んでくれといった 争いごとを好まないという反吐が出る正義のヒーロー気取りが沢山登場する。私はこういう人間が大嫌いだ。 自分なりの意見を言わない事を場の雰囲気の調和として選択する行為がそのものが好きになれない。 そしてそしらぬ顔をして、自分は空気を守る為に戦った顔をするのだ。

全うな手段を以って投じられた意見には同じような手段を経て、意見を持ってこちらも対処する。 それが最低限の礼儀であると思う。

しかし、偉そうな事を書いたが、実は私もこの反吐が出る正義のヒーロー気取りの1人でもある。 実際、自分の思い描いた理想を現実に組み込むのは難しい。どうしてもギャップが生じてくる。 理想を現実にするには、並大抵ではない才能と努力が必要だと言う事を実感してしまったのも大きい。 夢のない話だが、『長いものには巻かれろ』が賢い選択でもあるし、自分を守る唯一の手段でもある。

リーガル・ハイはそんな鬱憤を古美門という悪人が晴らしてくれるから面白いのである。 善人ではこの面白さは出ない。何故なら善人とは正義の代弁者であるからだ。 善人は色んな人から『良い人』とみなされる。その『良い人』というのは結局の所、自分の正義を代弁して行動するから『良い人』に他ならない。 意地の悪い言い方をすれば、『自分にとって都合の良い人間』こそが善人なのではないかと思う。 それとは正反対に位置する人間が集団心理における『正義』を次々とブっ壊してくれるのだ。 こんな爽快なドラマはない。

先程言及した『絆』について、古美門はこう評している。

絹美と言う古臭い名前を捨てたら南モンブラン市と言うファッショナブルな名前になりました。なんてナウでヤングでトレンディなんでしょう。そして今、土を汚され、水を汚され、病に侵され、この土地にも最早住めない可能性だってあるけれど、でも商品券もくれたし、「誠意」も「絆」も感じられた。ありがたいことです本当に良かった良かった!これで土地も水も蘇るんでしょう、病気も治るんでしょう。
工場は汚染物質を垂れ流し続けるけれど、きっともう問題は起こらないんでしょう。だって「絆」があるから!!

絆を盾に自分達の感情を押し殺し、調和を求めた老人達への痛烈な皮肉である。 そして彼はこうまくしたてる。

誰にも責任を取らせず、見たくないものを見ず、皆仲良しで暮らしていけば楽でしょう。しかしもし、誇りある生き方を取り戻したいのなら、見たくない現実を見なければならない、深い傷を負う覚悟で前に進まなければならない、戦うと言うことはそういう事だ!愚痴なら墓場で言えばいい!!

現実でこんな事をみんなの前で言えたら、実行できたらどんなに爽快でかっこいいだろうか。 今の世の中はある種洗練されすぎてしまい、中々こうした声を上げることが出来ない。 平たく言えば『先が見えない戦いを始めるよりかは、現状に不満を覚えつつも、黙って生きていたほうが良い』考えが染み付いているのである。 日本人の元々の国民性も相まって、こうした考えは今や『暗黙の了解』とまで化している。

何故今までこうしたドラマが出てこなかったのであろうか。 聞けば、このドラマは視聴率こそ良くなかったものの、ネットを中心に大反響を巻き起こしたそうだ。 それは世の中でまかりとおっている正義にフラストレーションを抱えている人が大勢居る証拠でもある。 100%古美門に心酔する必要はない。しかし彼の生き方、リーガル・ハイというドラマ自体が 日本人への痛烈なブラックジョークと思うと、自分も変わっていかなければいけないのかなと、ふと、そう思ってしまう。