東京物語とちはやふる

山田監督が新作の『東京親子』の下地にしている小津監督の名作『東京物語』がHuluにあったので懐かしさの意味も込めて視聴。 合わせて昨日録画していた『ちはやふる』も今日見ていたのだが、偶然にもこの回のちはやふるも『親子』というものをテーマに据えていた。

東京物語が小津監督の代表作として日本のみならず、海外でも高い評価を受けているのはご承知の通りだが、その評価の高さは現代でも通用する親が手塩にかけて育ててきた子が自立していき、家庭を持ち、生じた変化というものを冷徹に淡々と描いた点が大部分を占めると個人的には思う。 東京物語の台詞で『よく子より孫の方が可愛いというけれど、やっぱり子の方が可愛いのう』というのがあるが、それは親が子を立派に育てたという経験と実績がそう親に思わせるのかもしれない。一部例外はあるが、往々にして親が子を過保護に可愛がるというのは、核家族が当たり前な世の中では 昔より強く感じる人は多いと思う。共働きによる親と子の接する時間が減っている事で親子の絆が軽視されつつあるという指摘もあるが、親も親なりに子を気遣っている人は多い。ただそれが子に伝わっているかどうかというと、やはり伝わっていないのが実情だろう。そこで生じる親子のすれ違いというのは昔に比べて増えた気はする。東京物語は親と子のすれ違いを既に子が自立し、自分の生活を持っている段階で話を展開しているが、この例え血を分けた人間でも、すれ違いは発生する問題は、人間の永遠のテーマなのかもしれない。

ちはやふるに関して。主人公千早は親に自分は注目されていないとずっと信じていたタイプだ。結局それに関しては誤解半分という所であったのだが、一体親は千早をどう思っていたのかは今回の話で初めて明かされた。年が離れているならともかく、年子となると、やはり最初に親として色々経験する事になる長女への心配事が募るのは仕方ないし、間隔を置かずに年子の場合、その経験を繰り返す事で親の心配事はなくなる部分はあるのかもしれない。その分生じた余裕が子への気遣いという面では若干おざなりになり、そこを子は敏感に感じ取る。ましてや千早の場合は、お姉さんが早くから社会人としての生活に片足を突っ込み始めた事情もあるので、尚更長女への親の心配事は募るばかり。だが千早はかるたに出会った事もあってか、幸運にもそうした親の心情を汲める娘さんに知らない間に成長していた。かるたというのは歌を詠んだ人の心情を汲むものでもある。母親は後回しにしていたのに自分達に素直に御礼を言える千早の成長ぶりに今更ながら気づいたのかもしれない。加奈ちゃんとの母親との会話で放任主義における成長の言及があるが、実際の所放任主義というのを理屈では良い事と分かっていても、親の立場からしてそれを肯定できる人が果たして何人いるだろうか。何年経っても親は子を子供扱いする人が多いことからも、本能的には親は子を自分の庭でいつまでも側に置き、慈しむというものがあるのかもしれない。

両方ともフィクションだが、ここまで親と子に対する描き方が違う作品をほぼ同時期に見たこともあってか、中々面白い体験をさせてもらった。 親子に対する描き方というのは人によって千差万別だが、やはり正解というものもない以上、描き方のパターンを楽しみながら見るのが良いのかもしれない。ただ大半の作品に共通する部分は、やはり親は子が可愛くてしょうがないという事。現実世界ではそれを否定する親子も中にはいらっしゃるし テーマによってはフィクションも否定する作品があったりするが、個人的には親子の絆は不可侵の領域であり、絶対なものだと信じたいところだ。